現在、明らかになっている沖縄そばの歴史は、明治中期にさかのぼる。(株)サン食品が発行した『沖縄そばに関する報告書』によると、最初に那覇にそば屋を営業したのは唐人だった。具体的な時期は不明だが、その後唐人のそば屋で奉公していたという比嘉さんが「ベェーラー」そば屋を開いた。両者は二、三年もの間客の入りを巡って競っていた。比嘉さんはそばの具に卵のヒラヤーチーをのせるなどの工夫を凝らし、ついに勝利。唐人は国に帰ったということだ。
明治の終わりごろには、鹿児島出身の森さんが「森そば」を開店する。経験年数やウデによって板場に階級制度を設けて特典をつけるなど画期的な制度を取り入れていた。
大正に入ると、そば屋が次々と登場し、沖縄そばの様相も変わってくる。辻の元ジュリで5、60代のウシーおばさんが経営する「ウシンマーそば」は、これまで豚肉の細切れとネギだけだった具に、かまぼことショウガをのせて人気を博した。八重山のピパチを香辛料に使い、こぎれいな器に盛り付けて多くの人に受け入れられた。
大正九年には、板場から経営まで「そば街道」を歩んできた新里有一郎さんが「井筒屋」を経営。店の屋号入りの碗を作らせたり、かき氷を販売したり新しい試みを行った。一方、きちんとした分業体制をしいていたのが「ゆたか屋」。木灰回収、灰汁作り、麺作り、出前、集金の担当を決め、仕事の効率化を図ったのだ。
そばのだしについて興味深いのが、しょう油と塩の配分だ。当初は、豚骨とかつお節でとっただしに塩を少し加え、さらに色が真っ黒になるまでたっぷりのしょう油を注いで味をつけていた。それを現在の透明なだしに変えたのが、ゆたか屋だった。
これまでのしょう油中心の味付けを塩中心に変えただけだが、他の店ではなかなかそのなぞが解けなかったらしい。白いしょう油を使っているだとか、いろいろな憶測が飛び交ったよう。最終的には各店がしょう油の量を減らし、今のような透明なだしに落ち着いたようだ。
沖縄そばの名称についても、具やだしと同じように変遷をたどっている。もともとは単に「すば」あるいは「支那すば」と呼んだ。大正八年ごろ、警察から「琉球すば」と呼ぶように指導されるが、現実には守られなかったようだ。
戦前まで、創意工夫がなされた各地のそば屋も、戦争ですべてが破壊された。その後は、米軍から配給されるメリケン粉を使ってそばを再現し懐かしむ人も多かったようだ。
そんな中、いち早く復興を遂げたのが「井筒屋」「三角屋」「万人屋」などの戦前まで人気の高かった店。また新たにそば屋を営業する人も増えてきた。この時代に特徴的なのが、戦争で夫を失った未亡人が生活のために店を始めるケースが多かったこと。首里に店を構えた「さくら屋」がその典型。店を閉めた今となっては味わえないが、彼女の作るそばはその後も語り草になっている。
ガスや電気が普及するようになると、沖縄そばにも変化が出てくる。60年代には老舗と呼ばれた店が次々とのれんを下ろした。その理由は、麺作りに欠かせない木灰の入手が困難になったから。時代の流れとはいえ、象徴的な出来事だ。
土復帰を果たした70年代は、沖縄そばにとっても華やかな時代となる。そのきっかけとなったのが「ソーキそば」の登場だ。甘辛く煮付けたソーキをそばにのせるのは画期的で、これまでのそばの概念を大きく覆すものだった。
それからというもの、そばの上にはさまざまな沖縄料理がのるようになった。さらに具だけではなく、麺自体にゴーヤーやヨモギなどの野菜を練りこんだものも登場し、そのバリエーションを拡げている。しかしその一方で、昔ながらの沖縄そばの味が見直されていることも事実だ。木灰や手打の麺作りを打ち出す店も増えてきている。